仏陀の教え-仏陀の生涯-仏陀最後の旅

仏陀の生涯-仏陀最後の旅

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仏陀(ブッダ)最後の旅

仏陀(ブッダ)は、八十歳になっていました。

余命少しと感じた仏陀(ブッダ)は、霊鷲山(りようじゆせん)を下りて旅に出ることにしました。

祗園精舎であのディバダッタが、仏陀(ブッダ)の教えに異論を立て、修行する人々を説き伏せて、新しい教団を作ろうとしていたので、仏陀(ブッダ)は分裂を防ぐため、シュラーヴァスティーに出向く事にしました。

今回の旅も、アーナンダとマトウビクニ、他お供を申し出た極少数の旅になりました。

まずラージャグリハに行き、王の後援に感謝し、この旅が最後になるであろうと言う別離の挨拶をし、ナイランジャーのマンゴー樹園へ行って三日ほど休息しました。

その後、彼らは渡し船の船着き場の村パータリ(※現パトナ市)に行き、そこでも仏陀(ブッダ)は教えを説きました。

それから川を渡ってヴァッジ国コーテーに上陸し、しばらく滞在してから、ナーディカ村へ行きました。

ヴァッジ国は仏陀(ブッダ)の教えを忠実に守る信者が多く、この上陸地はゴータマ渡しと名づけ、長らく聖地となりました。

雨季が近づいてきたので、仏陀(ブッダ)達はヴェサリーへ行きました。

ヴェサリーでは、仏陀(ブッダ)の教えに帰依していた娼婦のアンパバリーが出迎え、自分のマンゴー林へ案内しました。

翌朝の朝餐会に、一行を招待しました。
翌朝早く起きた仏陀(ブッダ)は、アーナンダを初めビク、ビクニを連れて、アンパバリーの屋敷に行きました。

彼女の心尽くしの朝食を食べ、食後ゆっくりと彼女と語り合い、彼女を励まし諭しました。

まもなく雨季になりました。
仏陀(ブッダ)はアーナンダと共に、竹林の小屋で雨を避けることにしました。

四ヶ月に渡る雨季の間に、ゴータマ・仏陀(ブッダ)は病気になりました。
日夜、激痛に苦しめられました。

アーナンダは、仏陀(ブッダ)の死期が近いのを悟り、最後の説法を願いました。

仏陀(ブッダ)は、仏陀(ブッダ)が死んでも、真理の教えとしての法と、実践の決まりとしての律を基準としていれば、それが師の代わりになることを伝えました。

死に際して、その心のあり方を詩句の形で伝えました。

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わたしは齢が熟した。

わが余命はいくばくもない。

汝らをすててわたしは行く。

わたしは自己に帰依する。

修行者達よ。

汝らは精励して清浄心を持ち、
よく戒めを保つようにつとめよ。

思惟によって、良く心を統一し、おのれの心を守れ。

法と律とに精励するものは、生の流転をはなれて、苦しみも終わるであろう。

仏陀の教え-仏陀最後の旅

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仏陀の教え-仏陀の死

仏陀の死

仏陀(ブッダ)は、痛みをこらえてヴァディー村に着きました。


金属細工師のチェンダのマンゴー林に泊まりました。

チェンダは、心をこめて仏陀(ブッダ)をもてなしました。


仏陀(ブッダ)は、スーカラ・マツダヴァ(茸料理の一種と考えられています)を食膳に供しましたが、この料理に毒茸が紛れ込んでいました。


仏陀(ブッダ)は、猛烈な下痢で苦しみました。


仏陀(ブッダ)は、無理をおしてクシナガラへ行くと主張しました。


クシナガラの町の外れまで来て、ヒマニヤヴァティー川の側の、沙羅(サーラ)の樹陰に入りました。


仏陀(ブッダ)は少し休んでから、また歩き出しカクッター川まで来て沐浴しました。


その後また歩いましたが、マンゴーの林を見つけ、疲れきった仏陀(ブッダ)は横臥(おうが)しました。


仏陀(ブッダ)は、チェンダが自分の料理で仏陀(ブッダ)が苦しんでいるので心を痛めているのを知っていて、後に誰かがチェンダを責める事がないように、アーナンダを呼んで言いました。


「わたしには忘れがたい供養があり、一つは悟りを開いた直後のスジャータの食物と、チェンダの供養を受けた食物だ。それは、最高の功徳である。」と、チェンダに伝えるように言います。

アーナンダから仏陀(ブッダ)の言葉を聞いたチェンダは、地に額をおしつけて泣いました。

少し疲れが取れた仏陀(ブッダ)は、再び歩き出しました。


クシナガラに着いた仏陀(ブッダ)は、アーナンダに言って、二本並んでいる沙羅の下に寝床を作らせました。


仏陀(ブッダ)は、頭を北にし右脇を下にして横臥しました。


アーナンダは、仏陀(ブッダ)の背を支えるように後ろにいたが泣いていました。


異母弟であり、愛弟子であるアーナンダに、仏陀(ブッダ)は悲しまぬよう、礼を述べました。


沙羅双樹(さらそうじゅ)の下で修行僧が病臥している噂が広がり、マツラ族の人々が集まってきました。


クシナガラに、スパッダと言う遍歴行者が仏陀(ブッダ)に教えを請いにやってきました。


アーナンダは、仏陀(ブッダ)が疲弊しきっているので、その願いを三度拒みました。


すると、仏陀(ブッダ)自身がアーナンダを呼び、スパッダを呼び寄せました。


仏陀(ブッダ)は、スパッダの問いに「自らの叡智によって真理を得、自ら磨き上げた叡智によって、自得した心理が正覚(しょうがく)であるかを思索する。

それ以外に正覚を得る道は存在しない」ことを説く。

スパッダは、地に額をつけて仏陀(ブッダ)を礼拝しました。

こうしてスパッダは、仏陀(ブッダ)の最後の弟子となりました。


夜は更け、仏陀(ブッダ)は静かに呼吸を止めました。


沙羅の花弁がはらはらと、尊者の遺骸の上に散り落ちました。


こうして、ゴータマ・ブッタは、衆苦を断ち、煩悩の業火を消し、不生不滅の法性を認証して、万苦を解脱して、涅槃(ねはん)の世界に行ったとされています。


これは、諸説ありますが、紀元前383年の乾季のある深夜のことだったと言われています。

(仏陀(ブッダ)の入滅の年については、BC483頃という説とBC383頃という説とがあります。)


後に釈尊涅槃の日は2月15日と定められ、日本の仏教寺院では、この日に涅槃会(ねはんえ)を修するようになりました。